少し前に出版された本になるが、竹内薫さんの『99.9%は仮説』(光文社新書)を読んでいる。
この本はなかなか面白くて、ためになる。読みやすい。「花咲爺さん」の異名を取るらしい竹内薫さんの人柄を表しているのだろう、とても優しい語り口だ。私がよく見る『たけしのコマネチ数学科』(フジテレビ)での竹内薫さんの姿が思い浮かぶ。
しかし途中、気になる箇所があった。それはp.141からの「科学はもともと哲学だった」という節だ。その節の要旨は次のようなものだ:
- 科学的思考の基礎がなおざりにされている。
- 科学は細分化し過ぎて、土台があやふやになっている。
- 「科学」という訳語は、明治時代に西周(にし・あまね)が考案したもので、「多くの科に分かれた学問」という意味だ。
- 「もともと西洋では、科学の前身は哲学でした。」
- 西洋では今でも科学の分野で博士号をとると「哲学博士」となるが、それは科学が哲学の一部であったころの名残りだ。
- 日本では、哲学の部分から抜け出て細分化された状態で「科学」が輸入された。
- そのため、日本の科学は、「西洋で脈々と受け継がれてきた歴史や精神に欠ける部分があります。」
要するに、科学をするには西洋哲学(特に科学史、科学哲学)を学ぶ必要がある、という主張だ。
この内容には、二重、三重、四重、、、に疑問がある。
上の1、2の点はいいとしよう。その点はまさに心しなければならない。「理系」とは、清く正しく理詰めで生きる道なのだ。
3について補足すると、「科学」のみならず「哲学」という訳語も、明治時代の西周が考案したものだ。科学は「science」、哲学は「philosophy」に相当する。
4が問題だ。竹内さんの説によると、もともと「哲学」という母体があって、そこから「科学」が分化してできた、ということになる。
しかし昔の西洋に関して言うなら、そもそも、「自然」に関することも「社会」に関することも「人生」に関することも、何かものを深く考えること、つまり学問全般をひっくるめて philosophy と呼んでいたのだ。
語源的には、philo(愛) + sophy(智)(智を愛すること love of wisdom)だ。昔の西洋でphilosophyとは、要するに「学問」のことだったのだ。現代で言う「哲学」自体、昔のphilosophyから細分化してできたものと言える。
したがって、「『科学』はもともと『哲学』だった」のではない。それを言うなら、「科学」も「哲学」も、もともと単なる「学問」と呼ばれる活動の中の各分野だった、という方が正しい。
5については、以前の記事でも書いた(注1)。Doctor of Philosophy (Ph.D.)に、「哲学博士」というような意味はない。あえて言えば、「学問博士」だ(日本の「学術博士」みたいだが)。科学分野に限らず、文学、法学、経済学で博士号をとっても Doctor of Philosophy だ。
6については、ある意味正しい。ただし日本では、「科学」のみならず「哲学」も、philosophyから抜け出て細分化された状態で輸入されたものだ。
7については、したがって、「科学」の土台をしっかりさせるために西洋の「哲学」を学んでも意味はない。そもそも、科学は「西洋の文化」ではないからだ。古代インド、中東、エジプトも「西洋」と呼ぶなら話は少しだけ別になるが。ただし、科学史、科学哲学をもっと教養として学ぶべきだ、という主張には共感する。
以上のようなわけで、竹内さんのこの本、素晴らしい本だが、「科学はもともと哲学だった」という部分には大いに異論があるのだった。
__________
(注1) 以前の記事『Ph.D. (ピーエイチディー)』 http://higashiooi-machio.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/phd-7324.html