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2008年12月の21件の記事

2008年12月31日 (水)

オカルトを批判するなら、阿弥陀仏や極楽浄土も批判しなきゃ…

オカルトやスピリチュアリズムを批判するのであれば、例えば阿弥陀仏や極楽浄土を説く宗教やその他のほとんどの既成宗教も批判しないと、理系的には筋が通らないだろう。。

何を思ったかテレビや書籍で熱心に「オカルト批判」「スピリチュアル批判」を展開する「科学者」を見るたび、そう思っていた。ところが、昨日テレビで見た『たけしの超常現象(秘)Xファイル』での大槻センセーの話で、疑問の一部が解けた。

大槻センセーは実は「人類は月に行っていない」と考えているようなのだが、「学界での立場や社会的な立場を考えると、私の口からそういう風に言うことはできない」、と率直に認めておられた。御立派。

そうなのだ。既成宗教は、権力があまりに大き過ぎるため、批判するのが怖いのだ。どうでもいいような弱小新興勢力をあのようにサディスティックに罵るのは、その腹いせなのだ。

すっきりした。大槻センセー、有難う!

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宇宙人

昨日テレビで『たけしの超常現象(秘)Xファイル』を見た。日頃テレビはほとんど見ないが、先日地デジ対応液晶テレビを買ったことだし、年末年始の休暇ということで、ここはひとつ地デジでオカルトでも。。というわけで。

オカルトに対する理系的態度は、「わからない」、「どうでもいい」、というものだ。現代科学は、オカルトが対象としている問題には概ね取り組んでいない。「科学者」は、専門外のことには態度を保留して口をつぐむのだ。

それはさておき、『超常現象Xファイル』。心霊映像が一番興味があったが、宇宙人(地球外知的生命体)の話が多かった。

最近のこういう番組で「宇宙人」の話が出る時にいつも疑問なのは、「なんで宇宙人の姿形があんなに地球のヒトに似てるんだ?」ということだ。

頭に目・口・鼻があって、両腕・両脚に律儀に指がついて、、と、つまりほとんど地球のヒトと同じだ。多少異形ではあるが、「ああいう知り合いのオッサンいるぞ」という程度。百年程前のSFでは、確かタコみたいな格好の宇宙人がはやっていたんではなかったか。「宇宙人」をヒトに似たスタイルにするのが戦後の流行なのか。

地球のヒトのこのスタイルは、地球上の環境の中で、それに適応する形で進化してきたものだ。「宇宙人」がヒトに似ている必然性は、多分ない。あるとすれば、生命というものはDNA・タンパク質を基本に構成されればどのような環境であれ同じような形に進化する、という仮説を前提にした場合だ。それは、進化生物学上の重要問題だ。

もう一つの疑問。「宇宙人」は話題になるのに、「宇宙猿」「宇宙犬」「宇宙猫」「宇宙バクテリア」といったものは話題にならないのは何故か?ということだ。

いくら「宇宙人」といえども、一挙にあんなにまで進化するのは無理だろう。地球の猿、犬、猫などに相当する生物種がいるはずだ。そういったものも「宇宙船」にはペットか食糧かバイ菌か何かの形で乗っているのではないか。

ロズウェルに墜落したという宇宙船には、そういう「宇宙猿」みたいなものは乗っていなかったのだろうか。それともあの「宇宙人の遺体」は実は「宇宙人のペットの遺体」だったのではないか。地球のヒトも、最初に生命を乗せて宇宙にロケットを打ち上げる時は犬や猿を乗せていたし。

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Perfumeは理系的に正しい

夜中にぼぉっとテレビを見ていたら、『トップランナー』という番組の再放送をやっていた。ゲストはPerfume。

私はPerfumeのファンだ。ファンになったのは、今年の4月に『新堂本兄弟』にPerfumeが出演して、ロック系のアレンジでの生バンドをバックに『ジェニーはご機嫌ななめ』を生歌で歌ったのを聴いてからだ。歌がうまかった。よく訓練を積んだ歌い方だ。

それまでにも『ポリリズム』を時々耳にしてはいたが、エレクトロニックな音楽の中に歌声が溶け込んでいたため、ちょっと聴いただけでは三人組のグループとして意識できていなかったのだ。

何にせよ一旦納得すれば徹底してやるのが理系の道だ。それからは、『スウィートドーナッツ』『ビタミンドロップ』以降のいろんな曲を調べ尽くした。広島時代からの努力の毎日。。それに、中田ヤスタカ氏はタダモノではない。一連の曲を聴いていると、一種の諦観、ブッダの教えに通じるものさえ感じてしまう。

『トップランナー』の最後で、司会の箭内道彦さんとSHIHOさんが面白いことを言っていた。「三人には、アスリートに近いものを感じる」。「これまでに訓練を積んできたものが結果として現れてきている」。そういうようなことを言っていた。

その通りだ。これまでの長い精進の積み重ね。今年のブレークは、その自然の結果だ。だから、三人とも謙虚で、背伸びしたところを感じさせずに淡々と歌って踊っている。だから見ていて楽しい。

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2008年12月30日 (火)

仕事納め

私の勤務先では、昨日12月29日(月)が仕事納めだった。

東京都区内なのに朝の通勤電車はガラガラ。いつもの人混みの10%程度だった。26日(金)を仕事納めとした職場が圧倒的に多かったからだろう。

例年28日が仕事納めのところが多いと思うが、今年は28日が日曜日にあたった。このため、28日仕事納めの原則を貫徹する職場では、自動的に26日(金)が仕事納めとなった。

一方、29日(月)仕事納めとしたのは、「いくらなんでも26日で終わりは早過ぎるだろう」と思った職場、ということだろう。

このご時勢。休みが減るくらい仕事があるのは有難いことなのだろう。

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2008年12月29日 (月)

PowerMac G5 メモリ増設

今日、自宅にあるPowerMac G5のメモリを増設した。3年程前に買ったもので、もとの状態で256MBx2、買った時点で512MBx2を増設して1.5GBだった。

理系の私が使うものではなく、芸術系の妻がデザイン関係で使うものだが、最近買ったComicStudioを、Photoshop、Illustratorと同時に使おうとするともうどうしようもなく動きが鈍くなるらしい。

そこで、4x2スロットのうち残りの2x2=4スロットを512MBメモリで埋めて、計3.5GBにすることにした。近所のLABIで、5000円ちょっとの512MBメモリ(Buffalo製)を4つ、たまったポイント19000円余りを使い切って購入。家に帰って早速増設作業にとりかかった。

電源を落とし、接続してある配線を全部抜く。筐体背面のそれらしいレバーを引き上げると、筐体向かって右側の側面パネルが外れる。さらに透明なプラスチックのパネルを外す。そして、筐体の右側に回り、左下についているファンの箱を引き抜く。すると、筐体の奥の緑のマザーボードに、上から下へとメモリが並んでいるのがよく見える。

上側に4つ、下側に4つ、並んでいる。メモリは、この上側と下側とで対にして、2本ずつ増設しなければならない。中央から埋めて、上と下に向かって増設していく。

既に上側2スロット、下側2スロットは埋まっているので、まずは上下の3スロット目にメモリを差す。スロットの左右に付いているレバーを開き、メモリをグッと押し込む。完全に押し込むと、レバーが自然に閉じる。

これを、上下の3スロット目、4スロット目の計4回繰り返して、増設作業は完了。用心のため薄手のビニール手袋(インクジェットプリンターの替えインクを買ったら付いてきたやつ)をして作業した。そこまでしなくても、メモリを持つ前に手の静電気を放電しておかねばならない。

筐体を開けたのは購入後初めてだった。中には、ぞっとするほど埃が堆積していた。マザーボードなどを傷付けないように注意して、小型掃除機で埃を吸い込む。メモリなどデリケートな部分の埃は、スポイトで空気を吹き付けて払う。といきたかったところだが、スポイトがなかったので、十二分に注意しながらストローで吹いて払った。

デスクトップパソコンの中は放っておくと埃だらけになる。年に一回、大掃除の時にでも筐体を開いて埃を払っておくのがいいかもしれない。

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2008年12月28日 (日)

火の用心

「火の用心。マッチ一本火事のもと。」

昨晩、家の前の通りを子供達がそう言いながら歩いていた。地域の自治会か子供会の年末行事なのだろう。東京の街中は意外に風情がある。

しかし思った。マッチなんて使う人は今ではほとんどいないのではないか。。

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偽善的エコロジーに乾杯!

世の中、「エコ」活動に溢れている。

CO2、NOxが地球温暖化の元凶と言いつつ、自動車販売台数の低下を嘆く人々。。

環境保護とか言って南極での細々とした調査捕鯨を妨害しつつ、アメリカでは車を乗り回し、大量の牛を殺戮してハンバーガーを食いまくる(ことは放っておく)人々。。

「エコ」は、巧妙に自己を正当化した「エゴ」だ。

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隠れキリシタン

コネタマ参加中: “サンタクロースの思い出”を聞かせて

九州の隠れキリシタンの伝統を受け継いだのか、なぜか教会に通っていた母の意向で幼児洗礼を受けた私(洗礼名、ヨハネ・ボスコ)は、三歳頃から小学校二年の時まで、毎週日曜はカトリック教会に通っていた。

クリスマスには、イエスの生誕の物語の寸劇を行なうなどのそれなりの行事はあったが、あのチンドン屋さんのような格好の「サンタクロース」を教会で見た記憶がない。ましてプレゼントをもらった記憶もない。

どんちゃん騒ぎをしてチンドン屋サンタから粗品をもらって喜ぶ風習は、キリスト教とはあまり関係ないのではないか。

一神教が理解できない理系の私は、小学校高学年以降は教会に通うのをやめ、成人になってからの洗礼も受けていない。

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ブラウン管とお別れ

7年前に2万円弱で買った、14インチ型のブラウン管テレビの調子がしばらく前から悪くなっていた。電源を入れてしばらくは、画面の半分がよく映らない。

最近は、電源を入れてから3時間ほどしないと全画面がちゃんと映らなくなっていた。ここ数日は、ついに何時間たっても全画面が映らなくなった。急に冷え込んだからか。

もう寿命だ。そう諦めて、新しいテレビに買い替えることにした。

もう街の普通の電気屋ではブラウン管型の安いテレビなど売っていない。どれも、液晶の地デジ対応のものばかりだ。7年前のように2万円で買える代物もない。

こんなに高性能・高画質のデジタル放送で、一体どんな番組を観れば元が取れるのか。。そんな風に想いつつも、仕方ない、できるだけ安くてそこそこの性能のものを買っておこう。

ということで、近所のヤマダ電機(LABI)で5万数千円(ポイント還元分を差し引くと4万数千円)でシャープの20インチAQUOSを買って持って帰った。

最初に観た番組が『すべらない話』。

高画質デジタル放送にふさわしい番組だ。。

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2008年12月27日 (土)

『ゆく年くる年』

コネタマ参加中: 年末年始のテレビ番組、見逃せないのは何?

大晦日の午後11時45分から元旦の午前0時15分まで、『ゆく年くる年』。年末年始のテレビ番組で他の何を見逃しても、これは見逃せないでしょう。

なぜか男性と女性が延々と歌で争い合うという、空しい騒ぎが終わる頃。その余韻を断ち切るように、年の終わりと年の初めの各地の様子が静かに映し出される。

雪がしんしんと降る中、寒さに耐えて、近所のお寺か神社に現世利益を求めて烏合する人々。。とりあえず年に一回、全力でお金を投げつければどこかの神様から現世利益を授かると期待して、明治神宮で通勤ラッシュを再現する人々。。

そういった信心深い人々の様子を、暖かい部屋の中で眺めながらボーっと過ごす。。しんみりと楽しいひと時。

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せんとくん派? まんとくん派? それとも、なーむくん派?

「イヌ派?ネコ派?」という質問から連想されるのは、、、

「あなたは、せんとくん派?まんとくん派?それとも、なーむくん派?」

これは私はもう断然、せんとくん派。

現代のマンガ的カワイイ系キャラクターの通俗概念を完全無視した、露悪趣味すれすれの圧倒的存在感。一度見たら脳裡に焼き付いて離れなくなる強烈なインパクト。カワイさというより怖いもの見たさに近い魅力。もはや爽快ですらある。

それに対して、署名活動までして登場した、まんとくん。「せんとくんの選定方法に疑問」というのが署名活動の理由とも言うが、せんとくんのあの前衛性についていけなかったというのが根源的な理由だろう。残念ながらインパクトの薄いあのキャラクターは、そういう小市民的意識をどうしようもなく象徴しているように見えてしまう。。

最も理解不能なのは、なーむくん。世俗的な執着を捨てているはずの仏教の出家者が、どういうメカニズムで「せんとくんのデザインが仏に失礼」などという発想をすることができるのだろう。ブッダは、たかがマスコットキャラクターのデザインくらいで傷つくようなズブズブに世俗的な存在なのか。そんなことより、お釈迦様のオリジナルの教えを何だかんだ理由を付けて捻じ曲げる方がよほど真理に対して失礼ではないだろうか。

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イヌ派? ネコ派?

コネタマ参加中: あなたはイヌ派、それともネコ派?

070813イヌ派? ネコ派? いや私は理系ですが。。

どちらかと言うと概してネコに親近感をおぼえる。周囲の空気を無視して独りで適当に楽しんでそうなところが優雅。イヌも、警察犬とか、信州信濃の早太郎系の賢そうな奴は、いじらしくていい。

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2008年12月26日 (金)

Perfume、いや、ぱふゅーむのAKIHABALOVEはいい曲だと思うんだけどな。。

二度とない、この夏を。。

私はアキバ系ではなく理系だが、Perfume、というか、ぱふゅーむの『AKIHABALOVE』(アキハバラブ)は、よくできた曲だと思う。

DJ momo-i作詞・作曲で、「打ち水大作戦 UCHIMIZU 2005」のキャンペーンソング。地球温暖化防止のために打ち水しよう!とは可愛らしい。キャンペーン用ポスターの中で、銀ピカの制服にカーネーションを付け、桶とひしゃくを手にした3人が微笑ましい。これを聴けば真冬でも「クールミズ」したくなる。ちょっとコミックソング的でありながら、なかなか味わい深い。

テクノ、ハウス系のファンとしては静かに無視したいところかもしれないし、今これを歌って踊るのはPerfumeとしても照れくさいかもしれない。

でもやっぱり、よくできた曲だと思うんだな。。 いつか復刻されることを願う。

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2008年12月25日 (木)

恵比寿 LIQUIDROOM リキッドルーム

一昨日12月23日火曜日祝日。連れ合いに連れられて、夕方から恵比寿のリキッドルームというライブハウスに出かけた。いろんなバンド、ミュージシャンの合同ライブ。

午後3時から9時過ぎまでやっているという。連れ合いの目当ては、iLL、DE DE MOUSE。ネット予約だと当日券の半額以下でチケットが買えたと喜んでいた。午後4時半に出かけて午後5時頃着。9時少し前までいた。

何だか学園祭のような雰囲気で楽しめた。入り口を入ってすぐの階段を上がると、二階はTower Cafeに続くこじんまりしたスペース。そこの一角でソロやデュオのライブ。二階から一階へ降りるとディスコ(クラブ?)みたいになっていてそこではバンドのライブ。出入り自由でみんな飲んだり食ったり休憩したり、音楽を聴いたりしている。

二階で6時半頃からiLL。基本的にソロでギターとボーカル、それに(多分)ゲストでエレキバイオリン。こじんまりしたスペースだったが、iLLのファンは多いようで、ぎっしり詰めて、みんな床に座って聴いた。

iLLが終わったら速攻で一階に移動してDE DE MOUSE。あいにく時間が重なっていて、最後の曲の後半部分だけしか聴けなかった。これを連れ合いはいたく残念がっていた。

DE DE MOUSEの次は口ロロ。これを「くちろろ」と発音するのを私は初めて知った。最初の曲はゲスト一人を入れた三人での演奏(というかDJ?)。次の曲は二人で。これはクラブミュージックというのだろうか。

その後しばらく休憩して、8時過ぎからフルカワミキさん。iLLつながりというか、元スーパーカーつながりということで。男のファンが多いようだ。音楽は、これはパンク?

9時頃からのバンドが一つキャンセルしたということで、代役を急遽iLLがやることになったということだったが、連れ合いはもう満足、翌日は仕事だし、ということで9時前に出た。

今日のライブは全体として打ち込み系が多かったようだ。メロディーはあまり目立たず、リズムが突出していて、コンピュータによる音の合成で色が付いた感じ。DTMで手軽に音楽が作れるようになったものの、メロディーを作るのはやはり難しいということか。。。

少し世代のずれた私には、ブライアン・イーノ系、ニューオーダー系に聴こえるものも多かった。

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2008年12月24日 (水)

「結果がすべて」という不幸な発想

「結果がすべて」、とカッコつけて言う人が時々いる。本当にそうだろうか?

物事は因果法則で推移する。結果は、そこに至る過程での様々な原因の積み重ねにより必然的にもたらされるのだ。

いい結果を得たければ、いい結果が出るような原因を作る以外に方法はない。ということは、「結果がすべて」ではなく、むしろ「結果を出すまでの過程がすべて」ではないのか。

コントロールできない様々な条件も結果に影響するので、努力しても望ましい結果が得られないこともある。そんな場合でも、結果に執着せずに最善を尽くしていれば、次にいい結果を得る確率は高まるだろう。

「結果がすべて」というのは、不幸を招く発想だ。

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2008年12月23日 (火)

髪の毛を食べると髪の毛がふさふさになる、、わけがない

「コラーゲンを食べると肌にいい」というのは、「髪の毛(ケラチン)を食べると髪の毛にいい」というのとほぼ同じ不気味な論理だ。「若い人の生き血を吸うと若返る」というのも同類の論理と言えるだろう。

コラーゲンもタンパク質の一種だから、単なるアミノ酸の供給源という意味では確かに栄養になる。しかし、食べたコラーゲンがそのまま体の中でコラーゲンとして働くことは決してない。皮膚に塗れば保湿効果はあるものの、わざわざ高い金を払って食うようなものではない。

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コラーゲンやヒアルロン酸を食べても無意味です、美容には

コラーゲンもヒアルロン酸も、食べても無意味です。これらが体にいいというのは、一種の都市伝説です。あるいは、良くて「プラシーボ効果」です。

コラーゲンは巨大なタンパク質です。つまり20種のアミノ酸が連なったものです。ヒアルロン酸は、N-アセチルグルコサミンとグルクロン酸という単糖がひたすら延々と交互に連結してできた多糖です。

こういった「生体高分子」を食べる(経口摂取する)と、胃腸で分解されます。小腸から吸収される段階では、アミノ酸・単糖(あるいは高々オリゴペプチド・オリゴ糖)といった「低分子」になっています。でないと、小腸から吸収され、肝臓を通って血流に乗って全身に運ばれません。

アミノ酸、糖類は、コラーゲン、ヒアルロン酸に由来しようと、焼き肉、アイスクリームに由来しようと、何に由来しようと同じです。

コラーゲンやヒアルロン酸が食べてそのまま体の中に吸収されるとしたら大変なことです。それは、極論すれば、「牛肉を食べると牛になる」、というようなものです。

ヒトの体の中で働くタンパク質は、ヒトの遺伝子に従って自前で生産されるのです。食ったタンパク質が人体の中でそのまま働くことは原則的にありません。ヒトのヒアルロン酸も、ヒトが自前で合成したタンパク質によって合成されます。もちろん、注射などで体内に直接注入すればしばらくは外来のもの(カエルのコラーゲンとかヒアルロン酸とか)でも働きますが。(その他、病的な例外もあるにはありますが。。)

ちゃんとした製薬会社が出しているコラーゲン、ヒアルロン酸関係の市販薬の説明書には、決してそれらが「体に効く」とは書いていないはずです。書けば薬事法違反です。

コラーゲンとヒアルロン酸を食べる人は、「プラシーボ効果(偽薬効果)」を期待しましょう。「こころ」のパワーはすごいのです。ただのデンプンでも、効果があると思って飲めば効果があることもあり得ます。

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「一日三食」は健康的か?

藤本晃著『悟りの階梯』(サンガ、2008)という本を読んでいると、次のような記述があった:

正式なお坊さんは一日一食、それも午前中だけと戒律で決まっていますが(中略)文句を言いながら一週間でもやってみたら、なんと、身体は軽い。健康になる。スマートになってメタボも解消。眠気も少なく、頭もよく回り、仕事はもちろん、仏法の聴聞や瞑想修行にも楽に身が入ります。」(p.89)

そうだ、お釈迦様は一日一食だったんだ。。。

瞑想修行などの間はカロリー消費量が抑えられていたとしても、一日全体としての運動量は今と同じ位か、むしろ今より激しかったろうに。。

以前にも、お医者さんが医学的観点から一日一食を勧めている本を読んだことがある。要点は次のようなものだったと思う(多少不正確かもしれないが):

「食事後数時間たって最初に現れる空腹感は、食事由来のグルコースが血中から細胞内に吸収された(血糖値が下がった)ことによるものであって、栄養が不足していることによるものではない。ここで次の食事を摂ってしまうと、過剰の栄養を摂取することになってしまう。」

吸収されたグルコースは、グリコーゲンや脂肪の形で蓄えられている。空腹感はしばらく放っておくと消える。蓄えられたグリコーゲンからグルコースが作られ、さらに「糖新生」によって脂肪からグルコースが作られ始めるからだ。こうやって一度の食事で摂った栄養をしかるべく消費させてから次の食事を摂る。それには一日一食程度がちょうどよい。

つまり、食事後最初の「空腹感」にダマされず、軽い飢餓状態になる前に次の食事を摂るようにすればよい、ということだろう。

実際、人間も含めて動物の身体は、長い進化の過程を通じて、飢餓に対応するメカニズムを二重三重に備えている。一方で、飽食に対応するメカニズムはほとんど身につけていない。飽食が問題になり始めたのは、生物進化の時間スケールからすればほんの最近のことだからだ。

人間の歴史で考えても、一日三食が習慣となったのはごく最近のことだ。現在に続く一日三食の習慣は、日本では明治の軍隊が始めたという。軍隊の魅力をアップさせるためという。

以上のように考えると、「一日三食が体にいい」という合理的理由はないように思える。

「一日三食でも不足しがちな栄養素(微量金属やビタミンなど)があるのに、一日一食ではもっと栄養が不足するではないか」、という反論もあるようだ。しかしそれなら、なぜ「三食」なのかという疑問が残る。一日四、五食、いや「不足」した栄養素が足りるまで何食でも食った方が健康にいいのか?

皮肉なことに、「飢餓に対する恐怖」も進化の過程で身につけたメカニズムだ。食えるものがあれば、必要なくてもとりあえず食っておこうとするのも本能だ。周りに食い物を見つける機会が少なかった時には、それでうまくいっていた。しかし、周りに食い物が溢れた現代の「先進国」では、それが逆に「命取り」になってしまったわけだ。

とにかく、「一日三食食べないと不健康」という強迫観念にだけは囚われる必要がない、と理系的に思う。

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二兆人の先祖 ・・・ 理系的には人類皆親類

あなたの父母は2人、父母の父母はそれぞれ2人ずつで4人、そのまた父母はそれぞれ2人ずつで計8人、、、という具合に、n代前の先祖の数は、のべ2のn乗人ということになります。

一代の時間、つまり子供を産む平均的な年齢を仮に25歳とすると、十代前は大体250年前。江戸時代、徳川吉宗や平賀源内が活躍していた頃に、あなたの先祖はのべ2の10乗人、つまり約千人いたことになります。

さらに十代遡って今から二十代前の約500年前は、戦国時代。一向一揆が盛んだった頃です。その頃あなたの先祖は、のべ約千の2乗、つまり百万人ほどいたことになります。

もう十代遡り、今から三十代前の約750年前は鎌倉時代、元寇があったりした頃です。皇居外苑に像がある楠木正成が生まれる少し前あたりです。この頃の先祖の数は、のべ約千の3乗、つまり十億人ばかりいたことになります。あくまで「のべ」ですが。

さらに十代遡り今から四十代前の千年前は平安時代、平将門の少し後の頃です。この頃の先祖は、のべ約千の4乗、つまり一兆人にのぼります。

この一兆人が全部別人ということはあり得ません。千年前の日本の人口が何人かは知りません。が、仮に一千万人だったとして、その全員がもれなくあなたの先祖だったとしても、一人当り十万回登場してもらわないと一兆人になりません。おそらくもう日本だけでは足りないかもしれません。

こうして同一人物の重複を除いても、膨大な人数であるには違いありません。おそらく、当時の日本人のかなりの割合が、あなたの先祖であるに違いありません。

千年前までの先祖の総数は、2+4+8+...+2**40(等比数列の和)で、のべ約二兆人ということになります。あくまで「のべ」ですが。この、のべ二兆人の先祖の中には、武士、農民、職人、商人、僧侶、学者、盗賊、等々、あらゆる階層、あらゆる職業の人が含まれているはずです。

のべ二兆人の先祖に見守られていると思うと、、、どんな苦難も乗り越えられることでしょう。

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2008年12月22日 (月)

再度、本来「今だに」が正しい。「未だに」が誤り。

「いまだに」はもともと「今だに」が正しく、現代になって「未だに」という間違い、誤用が広まったということは既に述べた:
http://higashiooi-machio.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-08c8.html

「いまだに」は、「今+だに」であり、「だに」は助詞「だに・すら・さえ」の「だに」だ。意味は、「今ですら、今でさえ」。「いまだに」は、「未だ+に」などではない。「未だ」は漢文読み下し文系の別の言葉としてあり、「not yet、まだ~ない」の意味。

なぜ現代日本語では、「未だに」という誤用が、正当かつ正統な「今だに」に取って替わるようになったのか。その理由に関する推定も既に述べた(上記URL)が、その後もう一つの要因に気付いた。

それは、現代日本語で、助詞「だに」を使う頻度が極端に少なくなったからではないか。もはや、「予想だにしなかった」「想像だにしなかった」「微動だにしない」のような慣用的な言い回しの中でしか、「だに」が使われることはないのではないか。

そのため、最近の人達は「いまだに」の「だに」が助詞の「だに」であることを知らないのだろう。そこで、今でも使われることの多い「未だ(いまだ)」という漢文口調と「いまだに」を混同し、「いまだに=未だに」と思い込んでしまったのだろう。紛らわしいことに「今だに」には軽い否定・非難の意が込められていて、「未だ(いまだ)」と同じ文脈で使えることが多いのだ。

それにしても、古文あるいは明治・大正頃までの小説に馴染みがあれば、「今だに」という正しい用法を何度も目にして知っているはずだ。最近の学校では古文はあまり習わないのだろうか。

「今だに」でも「未だに」でも、どちらでもいいじゃないか、と言えばそれまでだ。

しかし、本来正しい「今だに」を使っている人が、「未だに」を正しいと信じ込んだ人達から、どうやら不当な仕打ちを受けている様子だ。理系として、それを見過ごすわけにいかない。

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今だに、未だに

「今だに」が正しい。本来。

なのに、最近目にするのはほとんど「未だに」。ネットで検索しても、「『未だに』が正しい」という主張が溢れていて、中には「今だに」と書くのを馬鹿にする主張すらある。

「未だに」を正しいとする根拠はあいまい。「辞書に書いてあるから」とかが主。おそらく、「みんな『未だに』を使っているから」、それが正しいと思い込んでいる人が多いのだろう。中には「パソコンの漢字変換でもそうなるでしょ」という間抜けな根拠も。

私の場合、中学・高校の古文の時間に先生が連呼していた、助詞の「だに・すら・さえ」が強烈に頭に刷り込まれている。「いまだに」の「だに」は「だに・すら・さえ」の「だに」だ。

「いまだに」は、「今+だに」(=今ですら、今でさえ)であって、「未だ+に」(=not yet+に)ではない。「未だに」だと、最後の「に」の説明がつかない(後付け的に「に」を助詞として苦しく解釈する人もいるようだが)。「未だ(いまだ)」(=まだ、not yet)という漢文読み下し文系の単語は別にある。意味が違う。

「未だに」と書く人も、少なくとも肯定文においては「今だに」(今でも)の意味で使っている。その場合、「未」(not yet)という漢字を当てることの不合理さは気にならないのだろうか。

Not yetの意味なら単に「まだ」と言えばいいのだが、漢字を当てて書くとこれも「未だ」になる。「未だ」と書くと「いまだ」と読みたくなる。ところがこれは漢文系のためちょっと堅苦しく、話し言葉としてしっくりこない。

そこで「未だ(まだ、not yet)」の意味の場合も、既にあった「いまだに」という言葉を流用して「に」を付けて書くようになり、結果として、意味が「今だに」の場合も「未だに」と書く逆転現象が生じたのではないか(これは私の推測)。

「今だに」の「だに」に否定的なニュアンスがあることも話をややこしくしている。

例えば、「いまだにあの古いパソコンを使っている」と言う時、「いまだに」は明らかに「今だに(今になっても、今でさえも、今になってすら)」の意味だ。しかし、「だに」に否定的な非難のニュアンスがあるため、文の意味としては「未だ新しいパソコンに買い替えていない(早く買い替えろよ)」という言外の主張を暗示している。しかも、「まだあの古いパソコンを使っている」という言い方も、おかしくはない。このため、同じ読みになる「未だに」と書いても、それ程不自然に感じない。

一方、「いまだに新しいパソコンに買い替えていない」という言い方もまったく正当だ。この場合の「いまだに」は「今になっても」の意味だから、「今だに」で正しい。しかし、文は否定文(「未だ(まだ)~ない」)なので、「未だに~ない」と書いても不自然に感じない。

日本語は変遷するものだ。悪貨は良貨を駆逐する。多数派を信仰して、少数派を馬鹿にするのもよくある話。意味もたまたま通じてしまう。話し言葉では区別すらできない。だから、「今だに」でも「未だに」でもどっちでもいい、と言えば言える。

しかし、合理的な根拠のないまま「未だに」がまかり通り、そればかりか「今だに」が不当に馬鹿にされるのは納得がいかない。私がズブズブの理系だからか。「多数派だから」というのは、理系的に根拠にならない。根拠がわからないで使うのなら、せめて「いまだに」とひらがなで書いて玉虫色に決着してはどうか。

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